「どれくらいの時間が経っただろうか、何とか耳らしき物が出来かけた時、私の背後で男が呟いた。
「だめだな。やっぱり自分で作るしかないか」
1972年夏のその日から耳の作家三木富雄のアシスタントとしての日々が始まった。」
「今振り返ると、当時の三木さんはニューヨークから帰国して間が無く、その年末に予定されている南画廊での個展に向けての制作の時期であった。「耳」の作家としての評価はすでに固まり、彼自身は全く別のスタイルの作品へと転換したいという強い願望を持っていたが、南画廊の志水さんとの話し合いでとにかく「耳」でなければ個展はできないという状況下にあって、その決心をする為のキッカケとしての儀式が私に粘土で「耳」を作らせる事だったのだと思う。要するに自分の手で作るしか無いのだ。」
「60年代に若くして華々しく耳の作家としてデビューした彼に他人は「又耳か。三木はマンネリだ」と言う。だが耳以外の作品はなかなか評価されない。そして彼も作り続ける意味を見失っていく。しかし、私がアシスタントをした時期の三木さんはその煉獄を乗り越えていたと思う。」
耳を作る男 鷲見和紀郎より