「性表現規制の文化史」白田秀彰著より |
仮に、私たちが表現に影響されて、その表現にならった行動をしてしまうとした場合(実際にはそんなことはないのですが)、「えっち」をすると命が生まれる可能性があるわけですが、人をさいなんだり人を殺せば命が失われてしまいます。」
「そもそもキリスト教化される前の古代ローマ文化においては、性を邪悪なものとして把握する観念がありませんでした。」
(「望ましい規範」について)「すると男性についても女性についても、財産継承者が確定するまでは、抑制された性生活が要求されることになります。というのは、財産を受け継ぐ立場にある子孫が多数存在することは、財産の分散や相続争いをもたらすことになるからです。」
「男性同性愛について言えば、ギリシャが教育課程の一貫としての「少年愛」を制度化していたのに対して、ローマは支配の道具または象徴として男性同性愛を把握していたといいます。ということは、彼らは同性愛を不自然だと考えていなかったようです。」
「性に関連した欲求や快楽のみならず、信仰を弱める可能性のある、あらゆる種類の欲求や快楽が抑制されることになります。」
「「罪」である性行為を行わずに神の子イエスを授かったゆえに、マリアとイエスは、何人にも脅かされない超人的かつ特権的な地位を獲得することになるわけです。逆に言えば、これが処女懐胎の教義の現実的な意義だと考えられます。ここで、ユダヤ教において性を穢れと見る価値観は、キリスト教ではさらに進んで罪とされることになりました。」
(ミシェル・フーコー「性の歴史」より)「発見された性的欲望は、単に個人的な傾向ではなく信仰における罪であるとされ、宗教が個人の内面までをも管理するための入り口となったということです。やがて、性的欲望は、社会に悪影響を及ぼす社会的な罪または病気として位置づけられ、19世紀には医学や精神分析、法学によって、制度的に告発され管理され治療されるものと扱われることになります。このように性的欲望は、国家が個人を管理するための正当な理由として利用されたわけです。」
「先入観なしに素直に見れば、性活動および性表現は、それ自体で有害であると考えることは困難です。」
(ヴィクトリア朝)「この時代の芸術展には女性の裸体を描いた作品が多数出品され、扇情的な作品もありましたが、不思議なことに「陰毛を描かない」という規範に従うことでポルノグラフィと区別されていたのです。この理由は、次のようなものと推測できます。すなわち、陰毛のない身体は性的に成熟してない「児童」の身体であり、それは性的成熟を迎えていない無邪気なものであるがゆえに猥褻ではない。」
「性的純潔に重い価値を置くアメリカの伝統社会にも、配偶者の選択過程において身体接触を伴う婚前の男女交際の習慣である「バンドリング」が存在しました。」
「社会における女性の置かれた状況について考えたとき、彼女たちは、1960年代に顕著になってきた(男性の側の)性の解放が、女性の人権侵害に結び付いていると認識するようになり、女性が性的に従属的な立場を求めているかのような性表現を問題視するようになりました。こうして、これまでのキリスト教系の団体のような宗教的な理由ではなく、性権力の問題から性表現規制を求める運動が活発化されることになります。(中略)これらの運動において、ポルノグラフィが女性蔑視と女性への性暴力を欲望させ、その実践を助ける存在であるとして盛んに非難されました。」
(ミネアポリスやインディアナポリスでの規制対象となるポルノグラフィの定義)「これらの定義を見れば明らかなように、ここで言う「ポルノグラフィ」とは、「性表現」である以上に「暴力表現」であると見ることが適切でしょう。」
(1980年代アメリカ)「成人の性に関する自己決定権の考え方が広く社会に定着してしまった以上、成人についての性表現規制を強化することは困難です。
(中略)「青少年について」の性表現規制を社会は容認していました。それならば、青少年を「健全」に育成することができれば、いずれ社会の性規範は再び教化され、社会の一般認識を基礎とする法もまた変更される、と保守派は考えたと思われます。
従って、この後の性表現規制は、もっぱら「青少年の保護」を理由としたものばかりになりました。(中略)
さらに言えば、実は「児童ポルノ」がことさら問題視されるようになったのは、この時期すなわち1970年末のことなのです。」
(アメリカの)「司法は、1960年代に至るまで、性表現は猥褻に該当するものであり、規制の対象であるという見解にあまり疑問を示してきませんでした。ところが1960年代頃から司法における性表現規制の根拠への問い直しがはじまりました。すなわち、具体的な害悪がなければ表現を抑制することはできない、とする言論表現の自由の原則に照らしたとき、性行為にも性表現にも害悪が見出せないという問題です。」
「神道においては、性を汚れであるとか忌むべきこととする発想がそもそも存在せず、むしろ、祭礼では性行為を模して、その生産の力にあやかろうとすることが通常でした。」
「平安末期に院生が開始される頃、武士団の成長もはじまり、その力を増していきます。武士団は、暴力に依存する集団ですから、当然に男尊女卑の考え方を採用することになります。構成員の人数が多いことは力ですから、構成員を確保する目的もあり、性を忌避して産児調整をするような理由はまったくありません。こうして、次第に封建制度が固まってきますと、父系相続権を確実にする必要から、身分の高い階層から次第に庶民層について、単婚制度が一般的となっていきます。」
「徳川幕府は、封建的身分制に基づく秩序を重視する朱子学を柱に幕藩体制を整備し、17世紀前半には完全な家父長制を確立しました。そして、儒教(朱子学)の影響のため著しい男尊女卑の思想が定着しました。」
「明治新政府は、幕末に締結してしまった治外法権の容認と関税自主権の喪失という不平等条約の撤回のため、近代国家として欧米諸国に認めてもらおうと、西洋法・西洋制度をとにかく受け入れることになりました。それら西洋法・西洋制度は、避けようがなくキリスト教道徳を下敷きにしていましたが、重要なのは、この時期すなわち1870年代は、欧州における性道徳がもっとも厳しくなっていた時期だったということです。」
「現在、たくさんの男女や青少年たちが、おそらく20年前には見ることもできなかったような赤裸々なポルノグラフィに触れているはずなのです。(中略)さまざまな報告や統計からは、むしろ性犯罪は減少傾向にあり、若者たちは実際の性行為から離れている傾向が強まっています。」
「(前略)性表現規制問題がメディアやネットで語られるとき、規制賛成派は当然として規制反対派までもが「えっちなのはいけない」を前提として論を展開していたことでした。(中略)「なんでえっちはいけないのだろう?生き物ならみんなやってるのに」という疑問を根本的なところから解決したいと私は思ったのです。」