「世界アート鑑賞図鑑」スディーヴン・ファージング編集主幹、樺山紘一日本語版監修より |
レイチェルホワイトリード
「《家》は何もない空間から制作された彫刻で、全体像は、かつて存在した物が欠けていることで想像され、空間的歪みを生じさせる。」
「K基金
《家》がターナー賞に輝いた年、賞の候補者が痛烈に非難された。(中略)イギリスのポップ・グループKLFだった二人がK基金を設け、ターナー賞に対抗する”反ターナー賞”を創設した。(中略)1994年8月23日、K基金はスコットランドのジェラ島で、100万ボンドを燃やす自らの姿を撮影した。」
ハイパーリアリズム
「ハイパーリアリズムの緻密な絵画や彫刻は、1960年代末にアメリカで勃興したフォトリアリズムに由来する。ハイパーリアリズムという言葉が示すのは、写真のごとく写実的、時に写真を主要媒材にする芸術だ。アメリカの画家デニス・ピーターソン(1944年生)はハイパーリアリズムとフォトリアリズムの違いについて、前者は視覚心象を利用して写実的かつ被写体以上に現実的な像を再現するが、後者は写真の模倣にすぎないと言う。ハイパーリアリズム・アーティストは作品の被写界深度や色彩、構図に慎重に手を加え、同時代の文化や政治に関する社会的メッセージを発する。」
「ハイパーリアリズムがフォトリアリズムと異なるのは、偶像の視覚的象徴主義が基盤にあることだとする。」
オップ・アート
「何世紀もの間、芸術家はだまし絵のような技法で目を欺く視覚効果を図ってきた。オップ・アートの道を築いたのは、純色を抽象的に組み合わせた初期のモダニストだ。彼らが示したのは特定の構成体ではなく、色や線から成る形だ。」
「デザイナーやグラフィック・デザイナーは視覚装置を用い、オップ・アートは広告板やアルバムのジャケット、室内装飾に多用された。(中略)この大衆文化への同化によって、オップ・アートは高級芸術ではなく、大衆の関心を惹く一過性の現象だと評判を落とした。」
「1950年代後半、ブリジェット・ライリーは独自の様式を見出し、ポスト印象主義のジョルジュ・スーラの視覚的な絵に着想を求めた。」
ミニマリズム
「1967年、美術批評家のクレメント・グリーンバーグは、ミニマリズムは”型破り”かつ知的で”扉、テーブル、紙”と同様に理解しづらいと述べた。2か月後、批評家のマイケル・フリードは評論「芸術と客体性」の中でミニマリズム彫刻は単なる物体であると断じた。しかし、彼は、鑑賞者と伝統的な美術品の関係を変えたとも述べている。また、ギャラリーに展示されたミニマリズム作品は劇場の舞台装置のようなもので、作品と交わることは美術体験の必須要素であり、遠くから眺めるのではなく、そばで鑑賞して理解すべきだと言う。ミニマリズムは作品に死をもたらすとフリードは見ていた。」
「1968年、ルウィットはオランダ人収集家宅の庭に小さな立方体を埋める《大切だがほとんど価値のない物をいれた立方体を埋める》を制作した(中略)彼の後年の作品は美術界を、コンセプチュアル・アートによる作品の非物質化への道に押しやった。」
インスタレーション・アート
「1987年、イギリスのリチャード・ウィルソンはイースト・ロンドンのマッツ・ギャラリーで、部屋を満たした《20:50》を発表した。その臭いと鏡面で有名なこの奇妙だが美しい作品は、1991年に美術収集家のチャールズ・サーチが購入し、現在、ロンドのサーチ・ギャラリーに展示されている。」
「ウォーホルの言う反復される像の”大量生産効果”は、大量再生産とマスメディアの世界における美術作品の独自性に疑問を投げかけている。著名人の写真を素地にギャラリー用の絵を制作したのは、高級文化と大衆文化の区別に対する批判の現れだ。しかし彼は、その種の問題に関して立場を曖昧にした。著名人の魅力に惹かれ、ハリウッドのセックスシンボルの顔に美を見出し、機械的に再生産することで芸術家としての技術と才能を封じようとした。(中略)当初は偶像破壊とされた《マリリン》はイコンと見なされるようになり、傑作の概念を砕くという目的とは裏腹に、欧米の芸術的伝統に同化した。」
抽象表現主義
「デ・クーニングをはじめ、”アクション・ペインティング“の画家はシュルレアリスムの、無意識層から生まれるオートマティスムに着想を得、意識下の根本的真理を表現しようと努めた。それは意識的な決断を経ず、刷毛運びによって表される。ポロックはこの手法を試みたが、単に線が増えるばかりで、その限界がどこにあるかを1947年から52年にかけて、”オール・オーヴァー”と呼ばれる絵画で試みた。」
「ニューマンは鑑賞者に、形而上的な遭遇を体験させる芸術を追究した。」
近代主義彫刻
「横たわる人体にムアが興味を持ったのはメキシコのチャク・モール ープレ=コロンビアン美術の石像で、首を90度横へ向け、腹部の上に盆を持った人が横たわっているー に強く影響を受けたからだ。」
フォーヴィスム
「マティスとドランは創造力豊かに色を使い、調和と不調和の両方を生み出した。奥行きがあるように錯覚させる伝統的な画法を拒否し、キャンバスが平らであることを強調した。」
写実主義
「ファンタン=ラトゥールは肖像画や静物画で名を成し、(中略)。花を描くことが権威への抵抗になるとは考えにくい向きもあろうが、彼は、アカデミー・デ・ボザール(芸術アカデミー)が果物や花を描く静物画を重要性において最も劣る分野と見ていると意識していた。そこで宗教、文学、歴史にまつわる絵を描かない代わりに、純粋に視覚に訴える絵を、瑞々しく生気にあふれた、この上なく巧みな絵の具の使い方で描き、アカデミー美術の制限に公然と反抗した。」
「写実主義運動はフランス国内に留まらなかった。19世紀半ばには、社会意識や民主主義や個人の自由を希求する精神が高まり、オーストリア、ドイツ、イタリアで時の政権に対する反乱が勃発した。(中略)この思想(注:社会主義)は多くの写実主義美術の”存在理由(レゾンデートル)”となった。」
フランスのアカデミー美術
ヴィーナスの誕生 1979年 ウィリアム・ブーグロー
「同時代の芸術家同様、官能的な理想の裸体を描くために、彼は女神という口実を利用した。豊かな色彩、丁寧な仕上げ、女神という口実、描かれた肉体の完璧さにより、初めての展示で大成功を収めた。その磨き抜かれた技術はフランスのアカデミー派の中で頂点を極め、それゆえに彼は生涯を通じ、伝統主義者から賞賛されると同時に前衛派からは罵倒された。」