「アートヒステリー」大野佐紀子著より |
「美術は言葉のいらない、言葉を超えたところにある表現だという通念は強い。しかし、作品を見て何がしかの感興を抱く時、人は自分の内でも何らかの言語的操作を知らず知らずのうちに行っているのではないでしょうか。(中略)
つまりものを見るとは、その人が既に「知っていること」を通してみる、ということに他なりません。見たことのないものに対面した時も、人は自分の「知っていること」を総動員してそのものの正体を見極めようとする。その作品が古典的な作品でも現代アートでも、何らかの「知」の枠組みの中に置くことなしに、あるいはそれを想像することなしに、そこにあるものを「ただ見る」のは不可能です。」
「なぜ、これがアートなの?」アメリア・アレナス著のヴィデオについて
「つまりヴィデオの方では「重要ではない」と言われていたさまざまな知識や解釈が、本の方ではちゃんと使われている。(中略)作品の背景についての一切の情報なしに、ひたすら「見えるもの」だけを即物的に分析したケースはないと言っていいでしょう。専門的な知を駆使しつつ、アート作品を見ることで知覚や認識がどのように刺激されるのかを、筆者自身の体験を通して語っていくという内容なのです。」
「マンガの見方を子どもが自然と覚えるのは、キャラや作画の魅力だけでなく、物語やその背後にある世界観に惹き付けれてどんどん作品を読み進めるからです。読む時間の長さ、そこから得られる情報量の多さがリテラシーを育てる。マンガの物語や背景にある世界観に相当するのが、芸術作品のコンテクストです。」
「幼児期の万能感を「去勢」されることなくそのまま持ち続け、世界の中心は自分で、その「外部」がありません。とりあえずの「自由」ととりあえずの「個性」(というかキャラ)が手に入ればいい。その感覚を後押しするように、「自分を好きになろう」「自分を信じなさい」と啓蒙し自尊心を刺激する自己啓発本は、90年代を通じてその種類と売上を伸ばし続けました。」
「芸術大学でも驚くことがあります。アーティスト志望の学生が、アートに興味がないのです。洋画の学生なら洋画のごく一部の作家しか知らなかったり、現代アートに興味があっても近代美術から現代への流れについて知らなかったりするのは、彼らにとって”普通”のことでした。体系的知識をもつことはそれに縛られることで「自由」ではないと思い込んでいる節さえあった。(中略)
では何に興味があるかと言えば「自分の感性」「個性」です。「現代美術演習」という授業をもっていた時のことですが、作品について「このモチーフが好き」以上の説明を求めると、「自分が好きってだけではいけないんですか」と不思議そうな顔をされます。人に分析されることへの忌避感情も強く、情緒的理解、共感を求めます。作品は作者の手を離れた瞬間からあらゆる解釈に向かって開かれる、もちろん批判もされるということが直視できないのです。」
「しかし美術は「個性」だけで成り立っている世界ではないことを知らなければ、作品からさまざまな背景が読み取れるといったことにも気付かないし、美術を形成してきた歴史や社会や経済の仕組みにも目が向かないわけです。。アートに対する批評的な目も育たない。」
「美術教育にできることは、わかることをわかるようにしていった結果、「わからないものがたしかにある」ことを知らしめることではないかと思います。」
「アートの延命力とは紛れもなく、制度と市場の延命力だった。近代に始まった美術館制度と学校制度、マーケットやメディア、それらすべての場で生計を立てる人々がいたから、アートは終わらなかったのです。」