美術手帖2017年7月号「アートフェスティバルを楽しもう!」より |
金獅子賞ドイツ館「館内に張られたガラスの床の上下で数人の男女が這う、火をつけるなどの奇行を展開。外壁は柵で覆われ、ドーベルマンがうろつく。現生との断絶を示唆するように男女は観客と接しない。分裂、二極化への言及か。」
イギリス館「館内に不吉な「柱」の大群が出現。表面はもろい布素材で中は空洞。いまにも倒れそうで、危険感が漂う。そんな素材と不確かな形態、憂鬱な色彩が、新古典様式のパビリオンと対照的。現代社会の土台となった伝統の崩壊を暗示か、古代文明への回帰願望を思わせる。」
イタリア館「キリスト像の生産工場と化したロベルト・クォギの話題作。墓から掘り起こされたような全身像が、死体安置室のようなビニールハウスの内外に並ぶ。有機素材でつくられた像は時代に現れるカルト宗教を暗示したもののように思える。」
オーストリア館「椅子やテーブル、キャンピングカーなどと来場者が戯れて、ともに「彫刻」を完成させるユニークな展示。それらの表面に描かれたイラストに従ってポーズをとる仕組みだ。物の配置が妙ならば、求められるポーズも変。車体に開けられた穴から尻を出すなどユーモラスなものが多い。」
デンマーク館「パビリオンが闇の劇場へと変貌。真っ暗な部屋に30分間座り、光がかすかに瞬く幻想的な舞台を見ながら、生、死についての語りだけを聞く。創作の源泉たる闇のプラスの面を見いだそうとする試みだが、孤独感も存分に味わわされる。中庭はまるで墓場のような様相に。」
企画展の注目作家 ドーン・カスパー
「自分のスタジオを、そのままビエンナーレの会場に移設。展示期間中にここで過ごすカスパーの生活自体が作品だ。ライブ演奏、コラージュ制作、ソファーで休息、服を脱ぐなど様々な行為が突発的に続く。アーティストの1日とはどんなものかを堪能できる。」
ドクメンタ14アテネ会場レポート
ダニエル・クノー「会場の中庭に積まれたゴミの山から「ファウンド・オブジェクト」を取り出し、その場で購入可能な「本」として80ユーロで販売。」
アニー・スプリンクル&ベス・スティーブンス「セックス・アクティヴィストとしても活動する2人の作家が、ベッドの中で観客をハグするパフォーマンス。アテネ・クイア・アーツ美術館と共同で、3日間限定の、セックスに関する相談所を野外に開設した。」
ケトリー・ノエル「ハイチ出身の作家が、内乱状態の続く自国をテーマに、暴力や死を表現。頭の部分が鏡となったいくつもの人形を高く吊し上げたインスタレーションに加え、パフォーマー・チームとともにダンス・パフォーマンスも行った。」
インタビュー芸術監督アダム・シムジック
「美術雑誌やオークションのレポートで定義されるような「ビック・ネーム」に関心がありません。これは、アート市場の安定化と偶像化をもたらした90年代以降に確立されたヒエラルキーへの、我々の抵抗とも言えるでしょう。「アート界」と呼ばれるある種のアイデアが着実に広がりを見せていますが、私はそれを、世界観のハイジャックだと思っています。なぜなら、そこには、ひとつのアート界しか存在しないことになっているからです。実際には、たくさんのアート界があるのです。」
「ギリシャの文化的分野で働く人々は、数少ない民間の団体から出る、ほんのわずかな助成金を争わなければなりません。」
ミュンスター彫刻プロジェクト
カスパー・クーニヒとクラウス・ブスマンが1976年に立ち上げた「ミュンスター彫刻プロジェクト」。ミュンスター市が公共空間に設置した抽象彫刻に対し、市民から非難の声が上がったことから、同時代のアートに対する理解を深め、公共性についても考える目的で始まったプロジェクトが、10年毎の開催で継続されている。
インタビュー、キュレーター カスパー・クーニヒ
「美術館に行くときは、そこに美術作品があるとわかっていますが、野外の彫刻はそれとは異なり、偶然の出会いとなります。ミュンスター彫刻プロジェクトでも、最初の2回は、抽象表現、ミニマリズム、またはコンセプチュアル・アートに理解を示さない一般の人々から多くの攻撃を受けました。ところがいまは、過度に歓迎されており、これがじつは攻撃されるよりも困った事態を引き起こしています。」
インタビュー川俣正
「ヨーロッパでは画期的な国際展が3つあると言われているんです。1986年にヤン・フートが企画した「シャンブル・ダミ」、89年のジャン=ユベール・マルタンの「大地の魔術師たち」、そして「ドクメンタ」。「ドクメンタ」は元々、55年から美術館の中でやっていたんですが、それが街に出るきっかけになったのは、街中のいろんな家の中で作品をみせた「シャンプル・ダミ」でした。「大地の魔術師たち」は非西洋社会の器物を含めることで作品の見方の幅を広げた。ただ、そういう動きは突然生まれたわけではなくて、ある種の伝統が背景にある。中世以来、ヨーロッパでは貴族やコレクターが美術家を招待して、自分の家や敷地に作品をつくらせることを伝統的にやっていたんです。」
「ただ、画一化の問題は企画者側というよりもアーティストの問題でもあるんだよね。サイトスペシフィックという方法で作品を制作しなければいけないとか、地元の人たちとつながってワークショップをすればいいと思い込んでいる美術家が多い。ある意味で「サイトスペシフィック」が言い訳になっているところもある。」
インタビュー北川フラム
「コップの中の嵐というか貧すれば鈍するというか、美術の世界は本当につまらない。たくさんの芸術祭があると言っても、実施しているのは100とか200。みんながみんな妻有とか瀬戸内みたいな規模の資金を投入しているわけじゃないし、安いところは1000万円以下。妻有ですら市と町が負担しているのは年間でわずか3300万円ですよ。決して大きな額じゃない。残りの資金は別から集めているわけだし、ほかの文化事業に比べれば四の五の言うことではない。それを美術関係者が良いとか悪いとか言うのはおかしいと思う。」
「美術の人はわかったもの同士でやるのが正義だと思っているけど、それだと持続可能性がないですね。」
黒瀬陽平
「現在の狂気じみた「芸術祭ブーム」が各地で不毛な作品やプロジェクトを量産しており、一刻も早く沈静化するべき現象であることは、いまさら筆者などが言うまでもないだろう。問題なのは、いかにしてそれを終わらせるか、だろう。(中略)筆者からの提案を簡潔に述べるなら、「キュレーションを批評せよ」である。」
「サーダン・アフィフ・ファウンテン・アーカイヴス」ポンピドゥー・センター 芝生麻耶=文より
「同館が所蔵する1964年作の《泉》と向かい合うように並べられた《泉》を巡る多様な解釈は、1917年の発表直後に紛失した作品が所在不明のまま、写真やレプリカを通して作家の手を離れ、増殖を繰り返し、芸術作品としての価値が付与され、歴史に刻まれる過程と仕組みを浮き彫りにしている。」