「日本文化論のインチキ」小谷野敦著より |
「ところで、私がラカン(1901-81)について書いたことを呼んでびっくりした人がいるかもしれないので言っておくが、いわゆる「フランス現代思想」とか、「ポストモダン」とか、「ニュー・アカデミズム」とかでもて囃された「思想家」というのは、学問的にはほとんどインチキである。」
「しかし、80年代というのは、中沢新一のオカルト本がブームになったり、浅田彰が、トラウマはトラとウマに別れて走り去る、などという冗談を、大真面目に紹介していたり、そういう学問的トンデモの時代だったのである。
ユング心理学というのは、こんな風に、神話を並べて、それを無造作に現代人に当てはめたりするから、まともな学問扱いされないのだが、(中略)
ユング心理学がオカルトであることは、リチャード・ノルの『ユング・カルトーカリスマ的運動の起源』(月森左知、高田有現訳、新評論、1998)と『ユングという名の〈神〉ー秘められた生と教義』(老松克博訳、新曜社、1999)に詳しい。」
「もちろん、多摩美大には、オカルトブームの帝王と言うべき中沢新一がいるし、亜インテリに人気のある茂木健一郎なる「脳科学者」もオカルトだし、その茂木を「疑似科学」と批判している斎藤環も、フロイト派だから、学問的とは言えない。」
「「恋愛輸入品説」というのは、明治期に、「恋愛」という思想が西洋から輸入された、日本人はそれまで「恋愛」を知らなかった、というのがその根幹である。」
「「恋愛という言葉が、明治期に作られた、というのはいい。これは事実である。しかしだから恋愛に当たる概念は明治以前にはなかったというのは、おかしいのである。これは土居健郎が「甘え」に当たる語は西洋にはないから、と言ったのと同じで、たとえば「非モテ」という言葉がない時代にも「非モテ」な男女はいたわけである。「セクハラ」という言葉がない時代にもセクハラはあったわけである。」
「もう一つ、この説と双頭の蛇のように現れてくるのが「恋愛」は12世紀にフランスで発明されたという説である。こんな説は大昔、1950年代ころまでにはやった説で、とっくに否定されているのに、日本では未だにそういうことを言う人がいる。」
「だいたい『万葉集』にはいくらでも恋の歌が出てくるし、(後略)」
「実際、徳川時代の庶民は、天皇が存在することも知らなかったのである。」
「西尾幹二などが、天皇家が今日まで続いてきたのは、日本国民が支持してきたからだ、などと言うのは、真っ赤なウソなのである。」
「もう少しあとに流行したベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体」(邦訳、1987)も、なぜあんなに騒がれたのか不思議である。ここで言われていることは、吉本隆明の『共同幻想論』と同じではないか。その『共同幻想論』にしてからが、出た当座はどうだったか知らないが、今となっては、「日本国」も「日本相撲協会」も、要するに組織というのはみな共同幻想である、というのは当たり前のことで、そんなに重要なことを言っていたのかどうか、疑わしい。」