別冊太陽「画家と戦争 日本美術史の空白」監修=河田明久より |
「宣戦布告もなく始まった日中戦争のスローガンは「暴支膺懲」であり、暴虐な中国人を懲らしめようという程度のものにすぎない。明確な戦争目的を持ち得なかったことは、画家たちに、敵としての中国人を描くことも、正面切って正義の日本兵を描くこともためらわせた。従軍画家でさえこうだったのだから、銃後の人々はなおさらいまが戦時下だという実感が稀薄だった。日中戦争期の美術界を見渡せば、文展にも在野展にも時局をうかがわせる作品は少なく、軍需景気にのって日本画が飛ぶように売れていたという。」
「サイパン島同胞臣節を全うす」について
「この作品も《アッツ島玉砕》も、その悲惨さゆえに、ときに藤田の厭戦意識の表れと言われることがあれば、いやこれらは戦中期には殉教図として拝まれていたと反論がなされる。つまるところ、藤田の戦争画が見ようによって戦争高揚画にも反戦画にもなりうるのは、これらが軍からの課題に屈して折らず、作品として自立しているからだろう。」
「ただ戦争美術展の地方巡回が、内容にも思想的な問題があったとしても、画家を夢見る地方の少年少女らにとって、一流の画家たちの作品を見る機会であったということ。戦争画を否定していくだけでは戦後の美術が見えてこない、ということだ。」
プロレタリア美術運動と戦争美術 足立元より
「芸術が芸術のためではなく、芸術以外の何か大きなもののために遂行されるのだという意識も一貫していた。プロレタリア美術も戦争画も同じ「目的芸術」であり、この左右を超越する「目的」の幻想こそ近代の人々が追い求めたものだった。」