猛虎図 |
いきものカード(猛虎図)
creature card (fierce tiger)
油彩、キャンバス
oil on canvas
41.0×31.8cm (F6)
2016
「猛虎図」は、明治になるまで本物の虎を見ることがなく描かれた。
虎に限らず当時の絵は中国や朝鮮から渡ってきた絵を見て描いていた。
絵師の修業は、膨大な量の手本を見て写し描くことを延々と続けるものだった。
「猛虎図」も多くは中国、朝鮮の虎の絵をもとにして描いた。
円山応挙には虎の皮を見て描いた「虎皮写生図」というものがあるので、虎の毛皮は入ってきていたようだ。
私の作品「いきものカード(猛虎図)」は猫を描いてから虎の模様を上に描いた。
一点は長沢芦雪の無量寺「虎図」襖のポーズを参照し、跳びかかる猫の様子を描いた。
無量寺襖は可愛らしくも見えるところから猫をモデルにして描いたのではないかと言われる。
もう一点は源琦「猛虎図」の振り返りながら前足を舐めるポーズをもとにしている。
可愛らしいポーズが猫のようだと言われる。
源琦の作品を参照しながら描いているうちに、竹内栖鳳「班猫」を思い起こし、そのポーズの要素も加味した。
芦雪、源琦は円山応挙の弟子である。
応挙の虎皮を見ていると思われる。
江戸時代の狩野派など、手本の模写による画風が形式化していく中、円山派は写生を重んじる画風だった。
円山・四条派の写生の精神を受け継ぎ、明治以降、京都画壇を形成していくことになる。
竹内栖鳳は「東の大観、西の栖鳳」と言われ、京都画壇を代表する日本画家だった。
栖鳳の師匠の幸野楳嶺は京都府画学校を創立する。
栖鳳は京都府画学校を出て、教員にもなっている。
京都府画学校はのちに京都市立芸術大学になる。
特段の関係はないが、私は京都市立芸術大学で日本画を学んだ。