「ピカソは本当に偉いのか?」西岡文彦著より |
近代以降の美術の最大の特徴は、それ以前の美術が担っていた実用的な機能というものを放棄してしまった点にあります。
かつて絵画には、そこに描かれたものを通して、人々になにごとかを伝達するという社会的なコミュニケーション手段としての機能が備わっていました。」
「革命政府が王室コレクションを開放し、これを市民のための美術館と称してみても、来場する市民の側は、そもそもそうした美術品と日常的に向かい合い、それを鑑賞吟味できるような生活習慣の余裕というものを持っていなかったのです。
加えて、先にも述べたように、美術館というものには絵画や彫刻をその本来の制作目的であった用途から切り離して陳列する作用がありますから、美術品に直面した市民は美術品というものとの初対面を、その制作意図もわからない状態で経験していたことになります。
フランス革命が一般市民のための美術館を誕生させる以前には、一般の人々が美術品にまとめて接することのできる公共空間は教会しかありませんでした。」
「美術や音楽の理解というものは、その本質において特権的な側面を持っています。
審美的な時間を持つ余裕のある生活のみが、その理解を可能にする能力を育むことができるからです。無論、視覚や聴覚に訴える芸術ですから、感覚や直感で判断し感受できる部分もあります。しかし、作り手もそれなりに意匠を凝らしているわけですから、そうした印象評価のみでは、その滋味の神髄を味わうことはできません。」
「今日からすると意外な感もあるのですが、この新聞雑誌において大きな人気を誇っていたのが美術批評でした。王室コレクションが開放されて美術館に展示されたものの、その鑑賞法がよくわからず、公募展のサロンに出かけてみても審査ができるほどの鑑賞のキャリアを持たない市民階級の人々は、そうした美術品の指南を活字文化の中に見いだそうとしたからです。
(中略)
この批評の影響力を利用することを考える画家が登場するのは、時間の問題でした。」
「(ピカソが)富豪の身でありながら貧乏を装うのは清貧とは対局に位置するもので、むしろ「ブルジョワ的偽善の最たるもの」ともいえますが、芸術家や知識人には現在でもなお、こうした野方途な生活を魂の純潔の証と見る傾向があります。
フランス革命直後のロマン主義という芸術思潮が、そうした生活様式を芸術家の理想としたからであり、今なお芸術家の理想像というものは、このロマン主義的芸術家像を規範としているからです。」
「なにより重要なことは、ダーウィンの進化論によって、変化するということが「向上」を意味し始めたことと、その変化による「生存競争」の概念が定着したことにありました。つまり、時代の変化に乗り遅れたものは生き残れない、という今日では自明と思われている考え方が定着することになったわけです。
この進化論ほど、前衛という概念に根拠を与えるものはありませんでした。
それは、変化というものが、生存を賭けた闘いにおいては正義と同義であると主張するに等しい論理だったからです。そして、美術もまた、適者生存の原理に従い、変化しないことには未来に向けてその生存を確保できないと考えられるようになったのです。
かくして、革新的であることが時として「美しい」ということさえ凌駕する、「前衛」に特有の美意識が確立されることになりました。「芸術が生きのびるためには美が死ななくてはならない」という倒錯した論理に、「科学的」な根拠があたえられることになったのです。」
「(「アヴィニヨンの娘たち」は)ピカソ全作品中でもっとも自己言及的、つまりは絵画のありようを絵画そのもので語るという「自分語り」性の濃厚な作品といえます。」
「美術館が、美術品から用途を切り離して成立していることから、美術は、実作においても批評においても、用途から切り離れたところでしか、美術館に入るための「偉大」さというものを獲得できなくなっているからです。
したがって、ピカソの実験的な作品に限らず、自己言及的な作品ほど偉大とされるのは、おかしいどころか、むしろ必然的な結果であることになります。