「美学への招待」佐々木健一、より 1 |
爪に花びらを「ペイント」するひとがルドンやルノアールの仲間だ、と考えているひとは、あまりいないでしょう。しかし、「アーティスト」と呼ばれれば、どこかそのような感じがして、悪い気はしないように違いありません。《アーティスト》には、読みようによっては藝術家であり、読みようによっては藝術家とは異なる、という曖昧さがあります。これはカタカナ語に通有の曖昧さであり、そこに異分野をクロスオーヴァーさせる力があります。」
「モダン・アートは、右に形式主義として挙げた諸様式と、ほぼ符号します。わたくしが子供の頃、わけの分からない藝術表現は「ピカソみたいな」と形容されていました。つまり、絵と言えば富士山や美女が描かれているものと思っているひとにとって、わけの分からない画像表現があちこちに見られるようになり、それらをすべて変な絵の代表者である《ピカソ》に結びつけたのです。面白いことがあります。デパートの三越が画家の猪熊弦一郎にデザインさせた包装紙があります。子供心にわたくしはそれが大好きでした。造形的には、それはモダン・アートそのものでした。しかし誰もそれを「ピカソみたいだ」とは言わなかったように思います。《模様》としてなら、受け入れやすいものだったわけです。モダン・アートが「難しい」というのは造形的な次元のことではない、ということが分かります。絵画とはこういうものだ、という既成の概念があり、それと衝突するからこそ「難しい」と見えるのです。つまり、これは、絵画とは何かという概念に関係する問題であり、まさに美学の問題だったわけです。」
「1950年頃には、既に美学者たちは藝術を一つのものとして定義することが不可能である、という考えにいたっていました。あるアーティストがこれはアートだと言えば、それがいかに異様な、これまで藝術やアートとされてきたものとは一致しないものであっても、それをアートではないとする根拠はない、ということになります。そこで、ネルソン・グッドマンという哲学者は、「art とは何か」という問いはもはや成り立たない、正しい問い方は「いつ art か」であるという有名な言葉を残したのです。」
「武道館ライヴとか、東京ドームのコンサートなどと言われるものが、これよりましなものとは信じにくいと思います。見える姿は豆粒のようになり、音響は拡声器のようなものにならざるをえないと判断されます。このようなコンサートのどこが「ライヴ」なのでしょう。すぐれた装置で聴くCDの方がよほど歌手の肉声を伝えてくれるでしょうし、テレビやDVDの映像の方が細やかな表情を教えてくれると思います。
ではなぜ、ひとはこのようなコンサートに出かけるのでしょうか。言うまでもないことですが、テレビやCDを通してその歌手のうたを知り、それをよいと思ったひとが、コンサート会場に足を運ぶのです。そして、その劣悪な視覚的音響敵な条件のなかで、好きな曲を再認識しているのです。そうでなければ、どこにも面白いところはありません。そのうえで、観念が味つけしています。スターと同じ時間と空間を共有している、という(事実というよりもむしろ)観念です。」
「ノートルダムへ行っても、モナリザを見ても、これ知ってるよと言って喜び、これ本物だよと言って感動します。つまり、再認の喜びです。
なぜこのようなことが起こるのでしょうか。それは、われわれの経験のうえでは複製がオリジナルになっているからです。たしかに、複製が作られる過程においては、まず現物というオリジナルがあり、あとからその複製が作られるので、この関係は決して逆転しません。ところが、ここにあげたような事例においては、われわれの経験から始まり、その複製を繰り返し味わったあとで、運がよければ、あるとき、そのオリジナルにめぐり合うのです。(中略)
このように考えてみると、われわれの経験のなかで、何らかの意味で直接体験と呼びうるものが最初に来るようなケースはほとんどない、と言えるでしょう。われわれを取り囲んでいる文化環境のなかでは、複製の存在が圧倒的なヴォリュームをもっています。それはわれわれの文化環境が、テクノロジーによって形成され、そのテクノロジーが複製を増殖させているからです。」
「複製は便利ですが、便利であることがかえって短所ともなります。映画館とは異なり、居間でなら、寝転がって映画のDVDを見ることもできます。(中略) しかし、このような便利さの条件のもとでは、作品に集中することは、ずっと困難です。藝術作品が集中を要求するものであるならば、わたしの自由になるということは、藝術にとって好ましいこととは言えません。自由であるとき、われわれは怠惰になりがちです。」