「道徳性の起源 ボノボが教えてくれること」フランス・ドゥ・ヴァール著、柴田裕之訳より |
こうした研究結果は、人間の道徳性にも関係がある。」
「科学は人生の意味を明らかにするためにあるのではない。まして、私たちに生き方を指南することなど科学には不可能だ。イギリスの哲学者ジョン・グレイは次のように述べている。「……科学は魔法ではない。知識が増えれば人間にできることも増える。それでも人間を各自の境遇から救い出すことはできない。」
「科学が買い被られる原因は、善き社会を築くためにはより多くの知識さえあればいいという幻想にたどれるように思える。道徳性の核を成すアルゴリズムをいったん解き明かしてしまえば、安心して科学に物事を委ねられる、そうすれば科学は最善の選択肢を保証してくれるという考え方がその背後にはある。これは高名な美術評論家は素晴らしい絵が描けるに違いないとか、料理評論家はきっと料理の腕も立つだろうとか考えるようなものだ。なにしろ、評論家はでき上がった作品に関して深い洞察を示すのだ。適切な知識を持っているのだから、制作も彼らに任せてしまえばいいではないか?ところが、評論家の十八番は事後の評価であり、創作ではない。創作には直感と技能とビジョンが必要とされる。道徳性がどのように機能するかを十分理解するために科学が役立つとしても、科学が道徳性を導けることにはならない。卵の味の良し悪しがわかるからといって、卵を産むことがはできないのと同じだ。」
「現生人類への道のりの終盤に起こった交雑(たとえば、ネアンデルタール人とのもの)が私たちの種としての成功に弾みをつけたのであれば、同じことがその序盤にも起こっていた可能性がある。ヒトと類人猿のDNAには、初期に交雑が起こった形跡があるのだ。私たちの祖先は分岐後もおそらく、今日では、ハイイログマとホッキョクグマ、オオカミとコヨーテで知られるような近縁種の交雑を、類人猿と繰り返しただろう。(中略)私たちの祖先とネアンデルタール人が同じ言語を話さなかったのは明らかなので、この二種のホミニン(ヒト族)間で性行為が行われた可能性は除外していいというものだ。この説に私は思わずニヤリとしてしまった。フランス人の妻と初めて出会ったときのことが頭に浮かんだのだ。言語とはじつに些細な障壁にすぎない。」
「ボノボの攻撃性について混乱が起こっているのは、彼らの捕食行動が一因だ。(中略)問題はこれがほとんど攻撃性とは関係ないことだ。1960年代にはすでに、コンラート・ローレンツが、猫が他の猫に対してシューッと唸るのは、ネズミに忍び寄るのとは違うと警告している。前者は恐れと攻撃性が混ざった表現で、後者は空腹に動機付けれらた行動だ。今では両者は神経回路網が別であることがわかっている。だから、ローレンツは攻撃性を種内行動として定義したのだし、草食動物は肉食動物に少しも劣らぬほど攻撃性が高いと考えられているのだ。
捕食と攻撃は昔から混同されてきた。」
(レヴィ=ストロースの近親相姦タブーの学説に対して)
「『近親交配の回避』(生物学者はこの手のタブーをそう呼ぶ。)は、ショウジョウバエや齧歯類から霊長類まであらゆる種類の動物でよく発達しているというのに。有性生殖生物にとって、それは生物学上の絶対条件に等しい。」
「アメリカでは、宗教はゾウのように大きく目立つ存在で、宗教を持たないというのは、選挙に出馬する政治家が抱えうるおよそ最大のハンディキャップとなり、同性愛者や未婚者や三度目の結婚者や黒人であることよりも重大なほどだ。」
「人々はただ信じたいから信じるのだ。これは全ての宗教に当てはまる。」
「これは、チンバンジーが以前受けた恩恵を覚えており、それに感謝していることを強く示している。
トリヴァースが予測したように、互恵性は負の面でも働く。トリヴァースは「道徳守備的攻撃性」の役割を見出した。私たち人間は、喜んで恩恵を受けるだけでろくに報いないヒトに対して、激しい怒りを覚える。チンバンジーも同様に、他のチンパンジーとの争いで支援してくれない味方には敵意を見せることがある。傍観している親友に手を差し出し、呼び寄せていっしょに敵に立ち向かおうとしたのに、その友達が争いに巻き込まれないように逃げてしまったとしよう。見捨てられたチンパンジーは喧嘩をやめて、声を限りに叫びながら、友達だと思っていた者を追いかけて襲おうとするかもしれない。(中略)
チンパンジー社会はしっぺ返しを中心に営まれているのだという印象を、私はいつも受ける。彼らは食べ物からセックス、グルーミングから喧嘩の加勢まで、さまざまな恩恵と不利益を通貨とした、社会的関係に基づく経済を作り上げている。賃貸対照表をつけていて、期待をし、ことによると恩義さえ感じ、そのため、信頼が打ち砕かれるとネガティブな反応を示すように見える。」
「身体的な共感は、抽象美術にさえ当てはまる。ミラーニューロンの共同発見者であるイタリアのヴィットリオ・ガレーゼとアメリカの美術史家デイヴィッド・フリードバーグによる論文は、画家のキャンバス上の動きを私たちが無意識になぞることを明らかにしている。ピアニストがピアノのコンサートを聴くときに必ず、指の動きを司る脳の運動野が活性化するのと同じで、ジャクソン・ポロックの絵画を観る人は、「絵の作者の創造的活動が残した(刷毛の後や絵の具のしたたりという)物理的な足跡によって暗示される動きと、身体的にかかわっているという感覚」を経験する。
こうしたプロセスは、けっして私たちの種に限った者ではない。ミラーニューロンが学者たちの間でもてはやされているなかで忘れがちではあるが、このニューロンは当初人間ではなくマカクで発見されたのだ。そして今もなお、人間の脳のミラーニューロンについてよりも、マカクの「サル真似」ニューロンについてのほうが、詳細で確かなデータが証拠として挙がっている。人間を対象とした研究のほとんどは、脳の特定の領域にこうしたニューロンがあると想定しているにすぎない。というのも、ミラーニューロンの存在を確かめるためには電極を挿入しなければならず。人間でこれが行われるは稀だからだ。」
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