「ヌードと愛国」池川玲子著より |
〈中略〉芸術的なヌードの創出、それは、脱亜入欧を国是とした明治政府が、欧米諸国をモデルに必死に推し進めた近代化政策の柱の一つだった。
モデルありきの近代国家化は、パッケージ化されている。〈中略〉多くの国では徴兵制が敷かれる。国民皆兵とはいえ、おおむね女性は徴募の対象とはならない。それを理由に女性には参政権が与えられない。近代国家は、一流国民としての男性、二流国民としての女性を階層化するシステムでもある。教育制とも男女別ルートで構成される。植民地人と本国人の間にも上下の階層が作られる。性区分と民族区分とが組み合わさって立体的なモザイクに分別された国民を、運命共同体として統合するべく愛国心が鼓舞される。そのためには建国神話に新たな命を吹き込まねばならない。国旗、国家が整えられなければならない。
パッケージされたものの一つに、油絵がある。近代初期以降、西洋諸国では、美術こそが国家成熟の指標とみなされていたから、油絵=西洋画を取得することは、近代化の大きな課題であった。その西洋画には、ルネッサンスに源をもつヒエラルキーが存在していた。最上位には歴史画。(中略)したがって美術訓練で最も重視されたのが、裸のモデルを使った人体デッサンだった。」
「巷間に伝えられる放埒な女性関係や、映画における露悪的な性表現とはなかなか結びつかないのだが、武智は高い水準で、フェミニズムを理解していた珍しい男性であった。彼いわく、女性の色気とは、男性支配の下で作りあげられた不自然なものに過ぎない。根本的な女性改造とは、女性個々の自覚や意図だけでは成し遂げられるものではなく、社会制度や教育学の問題へと連なっていかねばならない。
もちろん、フェミニズムを理解していることと、フェミニストであることは同じではない。さらに理解と創作とは、これまたまったくの別物である場合が多い。というより、創作の場では、常には隠している本音というものが露出してしまうというべきか。」
(石岡映子によるパルコポスター「裸を見るな。裸になれ。」について)
「いつか「手ブラの表象史」が書かれたとしたら、その時この一枚は、そこに特別な位置を占めるだろう。なぜなら、パルコの女性クリエイターが使ったというお墨つきが、大きな影響力を発揮することになるからーありていにいえば、1970年代を通じて、幾つもの追従作品を生み出すことになるからだ。
そのうちの最大の問題作は、科学技術庁が作成した1978年の「原子力の日」広報ポスターと言うことになるだろう。西武の堤は、数少ない反原発側の財界人であったから、これはあまりにも皮肉な帰結だった。」