「あらゆる小説は模倣である。」清水良典 |
しかし、ビギナーの習作の時期を過ぎて、自作を世に問う段階になると、とたんに模倣は、あってはならない違反行為のような性質を帯びはじめる。」
「模倣がネガティブに考えられがちなのは、芸術的な創作活動において、オリジナリティが何よりも尊重されるからだ。独創性と個性を、作家たちは永いあいだ競ってきた。
だが、そのオリジナリティという価値観じたいが、今日ではむしろ弊害をもたらす抑圧なのではないかと私は考えるのだ。」
「(ロマン主義について)
しかし私が問題にしたいのは、そのような狭義の歴史上の表現様式のことではない。小説の書き方そのものは近代以降、さまざまな思想や方法が出現し、どんどん新しくなっていった。にもかかわらず「作者」という存在についてだけは、今なお特別な選ばれた存在のように見るロマンティシズムが存続しているのである。
才能に恵まれた一人の作者が、天から降ってきたインスピレーションに従って、それまでなかった芸術作品を創造する。それこそが尊い「独創」というものであり、あらゆる芸術的な表現の本質であるー。「作者」のロマンティシズムは、二百年近くたつ現在でも、そのような信仰を私たちにもたらしている。」
「(村上春樹が神宮球場で野球を見ているときに、ふと小説を書こうという考えが舞い降りてきたエピソードの分析のあと)
村上春樹にとって「降りてきた」ものは、天から授けられたオリジナルな才能というよりも、いわば過去にさんざん親しんだものを有効利用するアイディアだったことになる。「降りてくる」といえば、「霊感」的なものに解釈してしまう癖が私たちに染みついているために、そういう現実がつい見えにくいだけなのだ。
「霊感」のような神秘的なことばは、事実をあいまいにするのに便利だ。あいまいにするだけでなく、美化する。」
「自分を特別なオンリーワンだなどと思い込んではいけない。同じように、自分のアイディアを天から降りてきた唯一無二の独創だなどと信じてはいけない。
そういいきることは、べつに卑下ではない。自分は他人と同程度に普通の人間なのだということ、自分の考えるようなことは他のだれかも考えていることなのであり、もとを辿っていけば世界のどこかから流れ着いて広まった考え方なのだということ、ーそれが現実であることを知ることから出発するべきなのである。」
「偉大な個性、想像力の到達者とみなされる「作者」が作品の主題や意図を一方的に書き記していて、読み手は自らのスキルを高めてそれを正しく解読しなければならない。近代において「作者」の威光がどんどん高められた結果、そのような一方通行の伝達が制度化された。これはベンヤミンが述べていたような、芸術が宗教的な礼拝に陥ってしまっていた事態に近い。
それに対してバルトがいう「読者の誕生」とは、作者の意図に遠慮せず、自由に解読を愉しむ読み手の権利の台頭を意味している。ひとつの文学作品をどう読むかは、作者という存在にかかわりなく、ただテキストがあればよい。」
「小説を読んだことがない人でも、小説を書くことはできる。
これは本当である。私の知っている複数の若手作家は、新人賞を受賞してデビューするまでマンガしか読んだことがなかったと断言している。
(中略)
では、デビューを果たすまでに、彼(彼女)はろくに小説も読まないのに、なぜ小説を書くことができたのだろうか?
それは小説というものが、もはや誰にとっても未知の文化ではなく、ときには「小説」そのものでもなく、あらゆるメディアの言説で、ストーリーの流れと場面構成から成り立つベーシックな文化になりきっているからである。マンガでもアニメでも、テレビドラマでも映画でも、物語の組み立て方は小説の伝統的な技法を基盤にしている。」
「データベースから自由にサンプリングし、リミックスすることで、まったく別の作品に作り替える。そこではもはや唯一絶対の独創的な作品であろうとする必要はなく、サンプルの旺盛な摂取力と、それを自在にアレンジする咀嚼力が試される。いわばそこでは密漁し盗む手口の巧妙さが、今や幻となった父権的なオリジナリティに成り代わっているのである。
しかし、なにも「やおい」の二次創作だけが「密漁」にいそしんでいるわけではない。参照するデータベースのジャンルと発表するメディアが異なるだけで、じつは本書でこれまで見てきたあらゆる小説が、同じことをしてきたという事実を認めざるをえないだろう。
(中略)
すなわちあらゆる小説は、部分や無自覚も含めて、多かれ少なかれ何ものかからの模倣あるいはパクリなのである。」
「ベストセラーになった「超訳 ニーチェの言葉」(白取春彦訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010)という本がある。
(中略)
《いい人が現れるのを待ち望んでいるのかい?恋人が欲しいって?自分を深く愛してくれる人が欲しいって?それは思い上がりの最たるものじゃないか!
多くの人から好かれるほど、きみはいい人間になろうと努力しているのかい?
自分を愛してくれるのはたった一人だけでいいって?その一人は多くの人のなかにいるんだぜ。それなのに、みんなから好かれるようにならない自分を誰が愛してくれるというんだ?おいおい、わかってんのかな。君は最初からめちゃくちゃな注文をしているんだぜ!》
(中略)
愛されたがる。ー愛されたいという要求は自惚れの最たるものである。
(池尾健一訳、「ニーチェ全集5 人間的、あまりに人間的Ⅰ」ちくま学芸文庫)」
「小説とはこういうふうに書けばいいものだと思い込んでいると、とんでもない。現在でも作家たちは新たな小説の方法を模索している。ここで他の作家たちが試みた方法を真似たあと、自分独自の方法を編み出せたなら、あなたは立派に前衛作家の一人である。」
「自分という創造主は、ほんのちっぽけな存在である。短い人生と限られた経験から考え出せることは、狭く貧しい。しかし外部には無限といってよいほどの材料が転がっている。それらと融合できれば無限の通路が生まれる。
模倣とは、自分の創造の可能性を無限大にする力に他ならない。」
「というのも今の若い書き手の多くが、書こうとする意欲ほどには、読もうとしないからである。読まずに書いた結果、それを自分のオリジナルな創作と自負しても、どこかに必ず似た作品がある。」
「一方で、小説に限らず創作の世界には「オリジナリティ」という、一種の信仰のような観念がつきまとっている。真に才能のあるクリエイターは他人の真似などしないし、誰とも違うオリジナルな創作ができるはずだ、という近代的な観念である。
しかしこの考え方は、とても危険だ。まったく無邪気にごくありきたりな創作をしても、それを「オリジナル」なものだと信じてしまう「無知な模倣」と背中合わせなのである。」
著者の清水良典を、パスティーシュの手法で小説を書く清水義範と勘違いして読み始めたが、別人だった。