「ダダー前衛芸術の誕生」 マルク・ダシー著、藤田治彦監修、遠藤ゆかり訳 |
「こうした無意識の過大評価は、おそらくシュルレアリスムの根本的なまちがいだといえる。ツァラは限定的にしか、無意識に関心をいだかなかったからである。彼は無意識あるいは狂気の魅力に、安易な感傷がひそんでいるとしてそれを恐れた。チューリヒの画家、彫刻家、写真家、映画製作者が材料を具体的に切りとり、組みたて、貼りあわせることで、ピカソが「現実の極み」とみなしていた抽象的な段階に到達していたように、彼は言語を物質的に理解していたのである。」
(モーリス・バレスの模擬裁判について)
「ツァラは巧みに、この裁判を嘲弄しはじめた。(中略)
予期しない展開に困りはてたブルトンは、やむなくツァラにこういった。
「証人は、まったくの愚か者とみなされたいのですか。それとも精神病院に入れられたいのですか」
ツァラは答えた。「はい。私はまったくの愚か者とみなされたいのです。でも私が人生を過ごしている収容所から逃げ出したくはありません。」
ある意味で、この言葉はブルトンとツァラの本質をすべてに物語っている。ダダが掲げた「純粋な愚かさ」は、あらゆる統制を拒否するものだったのである。」
「固い友情を結んだはずのツァラとブルトンだったが、アメリカの作家ウィリアム・S ・バローズの言葉を借りれば、「どこでもないところから来た男」であるツァラは、ブルトンにとって自分の計画をおびやかすただひとりの男になってしまったのである。ブルトンの友人アラゴンは、1970年代になってこう告白している。「ダダのグループ内の論争を、私たちがそれについて考えていたものを考慮せず、モダニズムの一種の民主主義として大勢のジャーナリストや芸術家たちに示したブルトンは、ダダの歩みを根本的に妨げていた。」
「ダダが終焉したのは、公式には1923年の夏のことだが、ツァラにとってはすでにこの時期、なにかが終わっていた。いずれにせよ1922年9月にドイツのイェーナとヴァイマールで行われた「ダダに関する会議」のとき、彼はダダの死を宣言し、モダニズムに対する敵意をふたたび強調している。
「ダダはモダンなどではまったくありません。むしろ、ほとんど仏教的な無関心の崇拝への回帰だといえます。(後略)」
(イベント「ひげの生えた心臓の夕べ」について)
「この大騒動によって、1920年以来つづいてきたツァラとブルトンの友情と闘争の歴史は終わりを告げた。すでにダダによってもたらされたあけすけな自由は煙たがられ、社会的成功のためには有害な存在とみなされるようになっていた。」
「ブルトンはダダの二番煎じである新しいグループを結成し、雑誌「シュルレアリスム革命」を創刊した。(中略)その後11月に、ブルトンは「シュルレアリスム宣言」を出版している。同じ宣言でありながら、ダダ宣言とシュルレアリスム宣言のあいだには大きな違いがある。ダダ宣言はまさしくダダそのものだったが、シュルレアリスム宣言は少しもシュルレアリスム(超現実主義)的ではなく、すばらしく見事だが月並み言葉で書かれた文学理論だった。
それにいらだったピカビアは(中略)「ツァラは、スイスで非常に個性的な作品を書いていた。ブルトンはそれを平然と利用し、その一方でジッドの足元にひれ伏し、プレーズ・サンドラールにも投資していた。(略)彼ら(ブルトンたち)の作品はダダのあわれな模造品で、彼らのシュルレアリスムもまさしく同じ種類のものである。(略)ブルトンはいわば、手品師たちの芝居ですべての主役をはりたい役者なのだ。」
トリスタン・ツァラ「ダダ宣言1918」
「良い絵にせよ悪い絵にせよ、カンバスが知的資本の投資のために用意されていることに変わりはない。新しい画家は、その構成要素が手段でもある世界を、論拠のない簡素で明確な作品を創造する。新しい芸術家は抗議する。新しい芸術家はもはや描かず/象徴的で錯覚を起こさせる模写はせず/一瞬の感覚から生じる透明な風によってあらゆる方向に向きを変えるような動く有機体を、石、木、鉄、錫、岩で直接つくる。ー絵画や彫刻作品は、いっさい必要ない。それが卑屈な精神を怖がらせる怪物で、人間の格好をした動物たちの食堂を飾る甘ったるいもの、人間性の寓話の挿絵ではなくても。」