ダダとシュルレアリスム 岩波世界の美術 |
「こうしたオブジェの多くは組みあわせの程度を変えなければならず、長続きしなかった。(中略)
1917年のあいだに、こうしたさまざまな個人的実験は、ビュッフェの回想によれば必然性のない「デモンストレーション」が論争を呼んで、人々をよろこばさせたという。」
「油彩画のような「高級な技法」の使用はそれなりに重要なものだが、グロスはこの技法に付与された伝統的な価値の逆説をほとんど楽しんでいるかのようだ。油彩画を買うのはふつう中流か上流の階級なのに、その油彩画がこの作品ではそうした階級制度をくつがえすという攻撃的な狙いと組み合わされているのだ。他のダダたちはたいてい油彩画を避けたとはいえ、数人の画家(とくにオットー・ディックス)はグロス同様この種のコントラストを楽しんでいた。」
「エルンストは単純なコラージュからコラージュ=絵画へと方向転換し、さまざまなオブジェを予想外のやりかたで隣りあわせ、空白やサイズを組み合わせたうえで、さらに進んで諸要素の統一する媒体として油絵の具を用いることになるが、この手法はなまやさしいものではなく、1922年にフランスへ移住する前の2年以上にわたって彼の関心事となった。この過程は作品をまともなものと受けとってほしいというエルンストの願望のあらわれであり、油彩画という月並な媒体への譲歩とみなされるかもしれなかったとはいえ、むしろ油彩画の秩序と一貫性への攻撃として機能したともいえる。」
「ピカビアの宣言の凶暴なアイロニーは、展示されている彼の作品とマッチしていた。それは縫いぐるみの猿をカンヴァスに結びつけて「セザンヌの肖像、レンブラントの肖像、ルノワールの肖像、静物画」などと書きこんである作品だったからだ。「死んだ」はずなのに「秩序復帰」している写実をあざわらいながら、体制側から英雄に指名されてしまった前衛にも攻撃を加えた。」
「徐徐に自己崩壊へとむかうこの過程は、出版物や舞台を通じていよいよあらわになった。立役者はピカビアとツァラ、ブルトンであって、3人の関係はそれぞれ優位に立とうとする個性のぶつかりあいと、イデオロギー状の根本的な相違とを浮き彫りにする。ピカビアとツァラとその仲間たちにとって、ダダはあらゆる締めつけを振りはらうアナーキズム的な状態をあらわしており、無制限に継続できるひとつの状態だった。けれどもこの立場には欠陥があった。そもそも観衆をいつまでも怒らせつづけることなど不可能だったからである。」
「より広い芸術の現場から見て、パリ・ダダの解体は意味ぶかい出来事だった。以前から攻撃の的になっていた人々は安堵の吐息をついたことだろう。他方、キュビスムやピュリスムに属する人々は、ダダが手順を整えてくれた根本的修正の恩恵にあずかろうとした。党派の分裂は当時もそれ以後もダダ精神の死滅として理解されてきたが、1922年から23年にいたる出来事の推移については、絶滅というよりはむしろ仲間割れに近い性格がある。結果としてブルトンは大多数の詩人たちを見方につけ、いっそう決定的な方向にむかわせた。つまり、いわゆる「不確実な時期(エポック・ブルー)」からシュルレアリスムの創始にいたるまでの期間に支配的だった方向である。」
「なによりも革新的な裸体写真は、イメージの美的特性と女性の肉体の形状や多様性とのあいだのバランスをさぐるものだった。この点でマン・レイの作品はボワファールその他、運動に加わっていた写真家たちにひとつのトーンを与えている。その結果はいまや女性の肉体の「オブジェ化」ー女性をひとつのオブジェに還元してしまうことーについての根本的な問題をひきおこしている。エロティックに仕上げられた上半身像のイメージには、一般にその種の非難から身を守るすべがない。そうしたイメージはある種の芸術好きのブルジョワ女性のあいだでは解放の徴候になったかもしれないとか、したがって芸術家自身によって表現される解放に等しかったろう、などといってみたところで、なぜ写真のなかの男性たちが服を着たままなのかを説明することにはならない。とくにこのような場合、ひとつのイメージが解放的にあらわれているか下品にあらわれているかを決めようとすると、しばしば困難が増すばかりである。それにシュルレアリスムが「男の凝視」だという批判を受けるのは、けっして写真の局面だけのせいではないのである。」
「シュルレアリスムの政治的行動主義への参加と、商業的成功をよろこぶ側面とのあいだにできた亀裂から、かつての「英雄的」だった1920年代に約束されていたような政治と芸術との統合など、もうけっして実現できないということが明らかになった。この運動のためにブルトンが選んだ政治上の独自性は、実際にはさほど影響力をもたなかったとしても、新しい参加者がふえるにつれて、芸術上の活動は目に見えて拡大していった。」
「ベルギーのグループは長いことマグリットの作品を中心として動いてきたが、この展覧会では彼のもっともショッキングなイメージのひとつ、《強姦》をカーテンのうしろに隠した。ひとりの女性の顔にその肉体を重ねてしまうやり口は、「親和力」ーまったく無関係なものではなく、神秘的に関係しあうものを併置することーへの画家自身の最近の関心をみたすものだった。画法は月並ではあっても、題名の暴力性がこの作品の穏やかならぬ特質をとらえている。」
「1935ー36年に連続してひらかれたシュルレアリスム国際展は、最後はパリで頂点をきわめることになった。(中略)デュシャンの監督のもとに、画廊は方向感覚を失わせる環境に変えられた。石灰のいっぱいつまった布袋のようなものがいくつも天井からさげられ、細かい粉末を降らせていた。さらに火桶でコーヒー豆が炒られたり、レコードがヒステリックな笑い声をあげたり、床のあちこちに木の枝や葉がばらまかれたりしましたが、これらはみなヴォルフガング・パーレンの発案だった。あらゆる良識へのこの攻撃は暗闇によって強調されており、観客は松明をもって進まなければならなかった。衝撃は常ならぬものだったにちがいない。予測されたとおり、オープニングの夜に松明が1本ものこらなかったので、画家たちからも薄あかりの照明が要求された。」
「ダリはバゲット・パンをたずさえて記者団に挨拶しながら、1936年、レヴィ画廊の個展のためにやってきたが、この催しはアルフレッド・バーの企画による近代美術館の「幻想芸術、ダダとシュルレアリスム展」と開催時期を合わせていた。アメリカではこの種の展覧会が運動の指揮の外でひらかれたため、シュルレアリスムの制度化の第一歩が踏みだされた。それは審美的・商業的評価のパターンを新たにつくりあげ、理論的・実験的な本質から絵画を引きはなしてしまう現象であり、そんな画一化をくつがえすことはブルトンにもできなかった。彼がためらっていたこととは別にして、この種の展覧会はシュルレアリストたちの受容を容易にし、彼らの最終手段である亡命を可能にした。その過程で風変わりなものが流行し、運動は広告やファッションとかかわりあった。」
「(前略)1980年代イギリスの新しい彫刻が浮上してきた。拾い物オブジェーダダとシュルレアリスムの作品の基本的な要素ーがふたたび有力な媒体となり、マーガレット・サッチャー首相時代の消費社会の雄弁な表現になっていた。たとえばトニー・クラッグやビル・ウッドローの作品は前例のない規模で「ブリコラージュ」の方式を展開し、シュルレアリスムの併置法よりむしろ、消費者運動の不良商品分類法によってオブジェをかきあつめたものだった。しゃれた題名をつけ、不快を承知で動物をピクルス漬けにしたデミアン・ハーストの作品は、その傾向をさらに推し進めながら、同時にクーンズ、ウォーホル、ダリに通じる見世物精神への方向転換をとげ、たちまち彼ら先人とならぶ悪名をえた。これは金銭や流行との結託であり、かつてブルトンがイデオロギー上の理由から危険視していたものだが、しかしポストモダン・カルチャーの変動するイデオロギーのただなかに、そんな傾向も抜け目なく抱きこまれてしまっている。
ダダとシュルレアリスムが広告やファッションの共通言語になったいま、芸術的実験と政治的解放とのあいだの関係も商業主義側の応急処置によって切りはなされている。それにつれてイメージ表現の効力は弱まった。同時に、テレビのコマーシャルに使われるオペラのアリアのように、くりかえし応用されている「驚異」の言語が、今日の大衆視覚文化のさまざまな局面を豊かにし、日常生活における非合理の受容を促進してきたのである。」