「ダダ・シュルレアリスムの時代」塚原史著より。 |
「ダダの屍からシュルレアリスムが生まれたとか、シュルレアリスムはダダの二番煎じにすぎなかったとかいった、どちらか一方に優位性をあたえるような議論は、もはや不毛のものとなっている。むしろ、二〇世紀の文化の方向を決定し、現在のわれわれをもその射程におさめている「精神状態」として、 ダダとシュルレアリスムをとらえなおす時が来ているのである。」
「二〇世紀はじめのヨーロッパに出現した「前衛的」芸術運動は、未来派にせよ、ダダにせよ、あるいは初期シュルレアリスムにせよ、「理性的主体」からできるかぎり遠ざかることをめざしていた、といえるだろう。」
「ギュスターヴ・ル・ボンは、「群衆の心理学」で(一八九五年)で、こう書く。「理性は人類にとってあまりにも新しいことがらである。それはまた、あまりにも不完全なので、無意識の諸法則をわれわれにあきらかにすることも、とりわけ無意識にとってかわることもできない。 われわれのあらゆる行為において、無意識の占める部分は巨大であり、理性のそらはあまりにも小さい。」ブルトンが、一九二四年の「宣言」であたえたシュルレアリスムの定義ー「理性によっていかなる管理も不在であるような思考の書き取り」ーがすぐあとに続いてもおかしくなほどの、この言葉は、 ファシズムの知的起源となるだろう、一九世紀末の知識人の新しい世代によって共有される。」