「未確認動物UMAを科学する」ダニエル・ロクストン、ドナルド・R・プロセロ著、松浦俊輔訳より

「科学者はすべて、ピアレビューが自我をずたずたにする過酷な手順で、ときにはバイアスがかかって不公平になることもあるのを認識しなければならない。しかしまっとうな科学者は面の皮が厚く、自分の研究の長所をしっかりとわかっていて、自分の方法を改善したい、あるいはもっと良い研究方法を探したいという欲求、最善の成果が発表できるよう辛抱する意思を持っている。そのような同業者からの批判が不可欠なのは、結局、それによって最善の科学的成果だけが発表されることが保証されるからだ。」

「未確認動物が実在すると広く受け入れるのは、単に時間と資源を無駄にするというより、無知、疑似科学、反科学という一般的な文化の火に油を注ぐということになるかもしれない。科学的方法の過酷な精査、批判的思考の厳密さ、本物の証拠の要求にかけられないままに、超常的なものが受け入れ可能で科学的に信用できるとメディアによって喧伝されるほど、人々は詐欺師、グル、教祖たちのねらいにかかりやすくなる。創造主義的未確認動物学者が科学の理解を害するほど、私たちみんなの状況がますますひどくなる。
 このことは、批判的思考が乏しく、基礎的な科学リテラシーがほんどない文化では深刻な問題だ。」

「広まっている超常的思考、疑似科学的思考は、楽しくも変わったものとして軽視すべきではないし、モンスターメディアの果てしのないコンベアベルトは単なる無邪気な娯楽でもない。超常的なものの誇張はそれを調達する者にとっては金になるが、その安易な利益は、反科学的・反理性的思考を奨励するという共通の対価によって得られる。」
[PR]

by mt_pineart | 2016-11-24 13:34 | 本の抜き書き | Comments(0)

「20世紀の日本美術 同化と差異の軌跡」ミカエル・リュケン著、南明日香訳

(高橋由一について)
「色調は暗く、筆触に潤いが乏しく、顔の表情には愛嬌がない。(中略)それにしても、まさにこの稚拙さが美術評論家たちをひきつけているのではないだろうか?」

「置物を作る側も評する側もただそっくりという以上に、命の息吹のようなものが感じられることが評価の大きな基準になっていたようだ。
 幕末から明治初頭を生きる人々が見世物とみなしたもうひとつのものが、「生人形」であった。(中略)
 この種の見世物に慣れた時代の傾向が、当時「写真」と呼ばれていたものを生んだといえよう。すなわち写実にむいている分野である。絵画、写真、そこから派生したパノラマ、そして人形芝居(義太夫や人形浄瑠璃)出身のパイオニアが会われた映画などである。
 (中略)
正統的な伝統芸術や主流な文化にはならないが、ものへのこだわりを持つ感性にはかなっている。
 このような感性は自然発生的なもの(好奇心、驚き、性的興奮)に基づいているために、ある意味で至極当然ということになろう。」

「しかし実のところ大観と栖鳳は、「国華」で線引きされた後に従ったに過ぎなかった。というのも「国華」創刊号に掲載された二つの作品が、奈良の興福寺の国宝「無著菩薩立像」(運慶作)と円山応挙の絵画「鶏図」であったのは、決して偶然ではなかったという事実がある。象徴的な両作品は、日本美術の写実的な命脈をうけついでいる。」

p68まで
[PR]

by mt_pineart | 2016-11-24 13:03 | 本の抜き書き | Comments(0)

2016年11月展覧会予定

外苑前のギャラリーでグループ展に出品します。

2016年11月16日(水)ー27日(日) 月火休み
午後12時~7時(最終日午後6時まで)
モルゲンロート

「ANIMALS」
出展作家:内田有、加藤萌、中静志帆、松山賢

ガラスの鋳造技術を使った、ポップかつアイロニックな作品。
乾漆や沈金といった伝統的な技法を今に生かした漆の作品。
江戸時代までの猛虎図や、猿猴図に由来した作品など、動物ゆかりの作品が揃います。
ぜひご高覧ください。

http://morgenrotarts.com/

b0143943_1322084.jpg

[PR]

by mt_pineart | 2016-11-18 09:10 | exhibition | Comments(0)

「現代美術コテンパン」トム・ウルフ著、高島平吾訳、1975年刊より

(訳者あとがきより)
「たとえば読者は、絵や彫刻というものは、見ればわかるものと思っておられるのではないだろうか。トム・ウルフもすなおに(かどうか)そう信じこんでいたのだが、どうももうひとつわからない。それをもっぱら、自分の見る眼が足りないせいにしていたところ、ふとしたきっかけで、じつは現代美術においては、この関係が逆であり、作品の背後にある理屈をつかまないかぎり、見るだけではだめだという、まるで”コロンブスの卵”のような、大いなる錯誤に気づかされたという。
 そう聞いて、何という単純な図式をと、怒りだす美術家の方もいるにちがいない。しかし、観衆としての多くの読者は、ほっと胸をなでおろされるのではなかろうか。現代美術はむずかしいというのが、いまでは通り相場になっているからだ。」

「1950年までの“理論”は、およそグリーンバーグを源とするものだった。そこへローゼンバーグが参入する。ローゼンバーグがひっさげてきたのは、もう一段高みに立った総合。グリーンバーグのいう形態的な純粋性と、初期の総合的キュビスム以来、抽象美術がもたなかったもの、つまり、前現代(プレ・モダーン)絵画の、古い、リアリスティックな情念の力とを結びつけた理論。これは、1930年代のあいだ、ずっとピカソを悩ませていた問題だった。もちろんどういうものであれ、いまさらリアリズムへなんか帰れないけれど、しかし、ローゼンバーグが答えをだした。”アクション・ペインティング“。」

「モーリス・ルイスというワシントンから出てきた41歳の画家が、このニュー・ウェイブの隊列に伍さんものとグリーンバーグとじっくり話し合う。あげく、彼の人生は一変。彼はワシントンに帰って考えはじめる。平面、と、あの男はいったよな……(間違いなくいったのだ)……一瞬のひらめきで。ルイスにははっきりと将来がみえた。これまでずっと使ってきた厚ぼったい油絵具そのものが、平面性を侵犯するもの、画面の統合性を損なうものだったのだ……(中略)
 というわけで、ルイスは、下塗りもしないキャンヴァスを使い、絵具を塗るときにも、それがじかにキャンヴァスに浸みこむまで薄めた。(中略)画面の上にも下にも、何もない。強いてあるとすれば、極小の綿くずくらい……そう、いまやすべては画面のなかにしかなかった。絵具は画面で、画面は絵具。たしか平面といったよな?それならこれをしのぐ平面をやってごらん、若僧どもよ!」

「ニューマンも、八丁目でもっとも口うるさい理論家のひとりときており、のちにはそれが彼の作品に如実に出ていた。彼は、死ぬまでの22年間を、ほかならぬフラットな画面上の、ストライプによって分割された大きな色域の問題(問題だとすれば)にとりくんですごしたのだ。もはや誰も、”理論”を知らぬ存ぜぬではすまない。」

「初期のモダニズムのほとんど、とくにキュビスムは、ただ部分的に抽象だった。(中略)いずれにせよ裸の女性にはちがいなかった。多くのコレクターたちにとっては、それが新手法(フォーヴィスムの、キュビスムの、表現主義の、シュルレアリスムの、そのほかもろもろの……)によるものだ、という事実さえわかれば、それでいうことなしだった。ところが抽象表現主義とそれ以降のもののばあい、必要なんですね……”言葉”が。それはもう、あれか、これかの問題ではなかったわけで。平面性やそれに関連する一般原則をわきまえていないことには、絵のなかに何を見ようが無駄なのだった。」

「レオ・スタインバーグは、もうひとりの理論家(にしてコレクター)ウィリアム・ルービンともども、ジョーンズ作品を、より新しい、より高度なひとつの総合だと書く。で、その核心の論点は?しかし、それもうー毎度おなじみ、あの平面性!!
 この新理論とは、こうである。つまり、ジョーンズは、旗とか数字とか文字とか、はたまた的とか、性質そのもからしてフラットな現実物を主題に選んだ。いわば、生まれながらにしてフラットなもの。それによって、ジョーンズは、じつに驚くべきことをなしとげている。彼は現実の主題を現代美術にもちこんだのだが、その方法は、”平面性”の法則を犯すわけでも、”文学的”な内容を導入するわけでもない。逆に彼は、日常的なコミュニケーションの道具ー旗や数字ーを美術作品に変えている……そしてそれによって、それらを非文学化している!(中略)
 次いでスタインバーグは、もっと別なことに気づく。ジョーンズはそのフラットな記号を、小きざみでむらのある、セザンヌばりの筆触でおおっていた。どうやらこれば、作品をよけいフラットに見せている。じじつ、彼の平面性は、デ・クーニングやポロックのような抽象表現主義作品の疑似平面性を、いっきょに露呈させるものだった。」

「だが、まあ、何ですね、以前の芸術をその参照点として用いる当世の美術の傾向には、いささか近親相姦めいた匂いがしませんかね?初期のモダニズムは、アカデミックな写実主義への講釈だったし、抽象表現主義は初期のモダニズムへの評釈だった。そしていま、ポップ・アートは、抽象表現主義にたいするコメントーそこには何か、いささか狭く、内輪的な、内側に向かってしか育たないようなところがないのでしょうか?いや、全然、とスタインバーグはいった。そして彼は、この時期の偉大なる格言のひとつをものす。いわく、「ほかの何であれ、あらゆる大芸術は芸術についてのものである」。」

「オップ・アート自身は、けっしてそれを、“オップ・アート”とは呼ばなかった。彼らにいわせると、むしろそれは”知覚的抽象”なのである。つまり、こうだーキュビスムは、現実世界のイリュージョンを見る窓としての19世紀的絵画感から絵を解放した。デ・スティルや抽象表現主義などの初期抽象は、絵画を「椅子とテーブルと同じようにリアルな、それ自体ひとりだちしたもの」として確立することでこの営為を継承展開させた。われわれ知覚的抽象の作家は、このものとしての美術を、純粋に知覚的作品に変えることによってこのプロセスを完遂させる。特殊な光学的作用を生みだすことによって(だが、あくまでもフラットな表面に!)、われわれはそれを外部世界から引き離し、「角膜と脳髄とのあいだ」の未知なる領域にもちこむ……。
 かくしていよいよ“理論”の本格的始動……還元主義へ向かって。で、このばあいの“理論”は、リアルな美術とはひとの脳髄のなかで生起するものにほかならない、というものだった。」

「抽象表現主義は、たしかに多くの進歩をもたらしはしたが、と彼はいった。そこには終始、何か古めかしいところがあった、と。その古めかしいところとは……ブラッシュストローク(筆づかい)だった、と。えっ、ブラッシュストローク?そう、ブラッシュストロークとグリーンバーグ。(中略)
 きわつけのポップ・アーティスト、リキテンシュタインは、この考え方が気に入った。というか、この考え方をずいぶんおもしろがった。そこで彼は、一連の”ブラッシュストローク”絵画を制作する。」

「どういうわけか、彼らの誰ひとりとして擁護しない(「説得力ある理論の欠如」)この様式が、売れに売れている。(中略)
 それでは、コレクターや作家自身は、20世紀美術の精華、つまり“美術理論”を捨ててしまったのか。いや、まだまだ。フォト・リアリストたちはコレクターに、だいじょうぶ、すべてはOK、まちがいなし、と安心させる。彼らが胸を張っていうには、自分らが描いているのは現実の情景ではなく、むしろカメラ・イメージ(リアリズムではなく“フォト・システム”)だ、と。さらにいう、自分らはブラッシュストロークなどその片鱗も見せはしない。描くのはただ穏やかな日ざしをうけた昼下がりの情景ー何かを”喚起”することがないように。われわれは画面全体に、ちょっと信じられないばかりの”均質さ”を出しているー絵葉書のようにツルツルテンの空にも、まんなかの流線型の銀色の銃弾にも、同じほどたっぷり絵具を使っている……。」
[PR]

by mt_pineart | 2016-11-13 22:13 | 本の抜き書き | Comments(0)

動物顔面陶彫文様

動物顔面陶彫文様下描きと彫り始め。
下描きはあたり程度に見て、すすめていく。
冬に土を使っていると、手荒れひびわれがひどいのでもうそろそろ、あと4点出きあがらせて、冬は絵を描く。
来月のグループ展の作品にとりかかる。

b0143943_141210100.jpg

b0143943_1412534.jpg

[PR]

by mt_pineart | 2016-11-01 15:00 | 制作中 | Comments(0)