シュルレアリスムについての文章

京都で行われる展覧会「溶ける魚 つづきの現実」で、シュルレアリスムについての文章を書きました。
他の出品作家の文章はこちらです。
http://tokeru-sakana.jimdo.com/comment/



「シュルレアリスムは、1.嫌い 2.解らない、が与えられたとせよ、あるいは、シュルレアリスムについて私が知っている二、三の事柄」

 シュルレアリスム絵画を初めて知ったのは、高校生のころだった。デルヴォー、マグリット、ダリの作品に、はじめは驚き、おもしろく感じていた。しばらくして、だんだんといいと思わないようになっていった。一瞬驚き、わかりやすいおもしろさは、減退していき、嫌ったらしい気持ち悪さを感じるようになった。
 わかりやすいおもしろさというものには危険がともなう。デザイン、広告などに消費されるようになっていき、大衆性を得ることによって、そこにとどまるということになってしまう。
 学生の頃、シミュレーショニズムを新しい動向として知り、影響を受けてきた。20年以上を経て、今さらシミュレーショニズムの影響が作品に出てくるのは、古いことではないかと考えた。シミュレーショニズムも、ポップアート、オプアートなどと同様、今となっては、ファイン・アートだけでなく、デザイン、広告などに取り入れられ、消費され、当たり前の感覚、一つの手法として使われている。一つの手法として定着したもので、他の手法と並列なものと考えればいいのだろうと思った。シュルレアリスムについても同様である。
 気持ち悪い、と一言で言っても広い意味がある。ここでいう気持ち悪いは、作家の欲望が直接に出ていることに閉口するというような感覚である。
 例えばモリニエの写真、コラージュ作品は、好きだ。ところが、モリニエの絵画になると、気持ち悪くて見ていられない。首のあたりがイガイガするような心持ちがする。ベルメールの人形写真は素晴らしいと思うが、ドローイングは気持ち悪い。
 表現するときに、ワンクッション、何かを介在させると、その気持ち悪さは解消されるのではないかと思う。描くという行為により、支持体に直接、表されるより、オブジェを作り、写真に撮るというのが、それにあたる。棟方志功の板画と肉筆画にも言える。
 澁澤龍彦経由幻想絵画、関節人形、はてはSMサブカルチャー趣味というのが、その袋小路に入ってしまったものとして気持ち悪い。しかし、これは人形であり、写真であったりするので、必ずしもワンクッション置いたものによって、気持ち悪さが解消されるというものでもないようだ。
 日本画制作をやめて、関節人形の制作を経て、彫刻作品を作りはじめたとき、自分の作品が、気持ち悪い閉塞したものになってしまうのではないかと危惧した。自分で言うしかないが、作品にユーモアがあったり、違った要素が入っていったりしたので、その方向に行かなかったと安堵した。しかし、他人から見たら、同じようなカテゴリーで気持ち悪く見られているということもあり得る。
 私がシュルレアリスムを最も体現していると考える美術家は、ジャクソン・ポロックだ。実際、ポロックはシュルレアリスムの影響を受けた絵画を描いている。シュルレアリスムの手法の一つ、自動書記を絵画において成し得たのが、ポロックのドリッピングだと考える。
 とは言え、ポロックのドリッピングは画面の四角を意識し、構図を考えながら、描かれたものだろう。ブルトンの自動書記の文章は、フランス語の文法を無視したものにはならなかったということだ。さらに、自動書記で書いた文章を推敲したという。完全な自動書記というのは、美術においても、文学においても、できるのだろうか。
  松山賢
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by mt_pineart | 2012-12-28 22:26 | 制作について | Comments(0)

「シュルレアリスムと性」グザヴィエル・ゴーチエ著、三好郁朗訳 訳者あとがきより

「グザヴィエル・ゴーチエが明快に跡づけていることですが、自ら革命思想を自認した二つの運動、コミュニズムとシュルレアリスムとが、いずれも、結果として、性欲をその原理において抑制するといういたって反革命的な地点にまで退行せざるをえなかったのはなぜであったか。
 ゴーチエはその第一の原因を、西欧にあってはもっともブルジョワ的かつキリスト教的な道徳によって支えられてきた父権的で単婚的な家族制度が、いずれの革命運動をもってしてもついに乗り越えられなかったところに見ているようです。こうした性差別を温存したままでの性の解放など、所詮は、男性がよりよく女性を享有するための反動的改良策であるほかないのでした。
 ゴーチエはまた、そうした革命運動においてさえも、性欲が常に性器的なものとされ、異性の生殖部位以外の対象に向かう欲望は〈異常〉、〈倒錯〉とされてきたことを指摘しています。かかる偏見が、結果として、男女両性をますますその〈役割〉の中に閉じ込め、男性による女性の疎外ばかりか、男性自身における性の抑圧状況までを保全してきたというわけです。」

「女性解放論(フェミニズム)といえば、意識的無意識的性差別者たるわれわれ男性がこの問題に関して発言しようとすれば、常に、自身の内なるこの差別者の存在を踏まえて立つほかないのだと思います。」
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by mt_pineart | 2012-12-28 22:10 | 本の抜き書き | Comments(0)

「シュルレアリスムと性」グザヴィエル・ゴーチエ著より

「シュルレアリストたちが、とくのその絵画作品を通じて、決定的に性を価値化しようとしたのは、そのことで、いわゆる男根神話が手つかずに保全できるからにほかならなかった。つまり、シュルレアリストたちは、おりあらば女性を鑑賞と消費の対象に還元しようとしていたのであり、そのくせ、男性ばかりからなるグループの内部で、自分が欲望の主体でなくなるようなことはけっして容認しなかった。シュルレアリスムが、流行の修辞や広告の戦術(冗談やレトリック)によって、あれほど簡単に詐取されてしまったというのも、要するにシュルレアリスムがそれ自体詐取的なものであったからだ。」

「コミュニズムの要求は、それが理想的に実現した場合、女性に男性と同一の公民権、同一の政治権力を与えるものであった。しかしながら、女性を権力に近づけるとは、ほかならぬ男性の権力に近づけることであり、それによって女性が、男性の夢、神話、幻想を採用するという意味を含んでいるのである。
 これは、黒人が黒人として搾取されているからといって、彼らを「白人化」しようとするのと明らかに同一である。しかしながら、黒人たちには固有の文化が、奴隷状態に置かれる前に彼らのものであったあの文化が、存在している。だからこそブラックパワーのパルチザンたちは、自分たちが、「黒人であること(ネグリチュード)」を真正面から振りかざそうとするのである。それでは女性たちはどうか。「女らしさ」という言い方には、男たちから授けられた「優しい自己犠牲」という印章が押されている。われわれとしては「女であること(フェミニチュード)」という新語を提唱したい。これは「黒人であること」と同じく、優越者たちの軽蔑を自ら進んで激烈に引き受けようとするものである。」

(「ナジャ」について)
「要するに、ごく普通の「一目惚れ」と呼ばれるものと、さしたる相異はない。(中略)一目惚れという言い方には、突然性、明白性、相互性など、あらゆる特徴がそろっている。ブルトンがこうした現象を魔術的とするのも、そこにそなわった非合理性を明らかにするためである。ブルトンは、われわれがある相手を愛してその他の人間を愛さないのはなぜか、その理由を述べることは自分にも不可能だという事実を強調する。われわれをつき動かす動機づけの大半が、われわれにとって未知なままだからである。」

「シュルレアリスムの作品では、多くの場合、女性が男性の欲望の受動的対象としてあらわれる。」

「しかしながら、この素晴らしい愛とは、実を言うと、公的な法であり掟でもある一夫一婦制を、もっとも厳格な形式で維持することにほかならないのだ。もちろんこの一夫一婦制は、今日まで、ほとんど女性にばかり強要されてきた。」

「ダリによれば、ブルトンは「スカトロジックな要素を前にすると、かならずためらいを見せた」らしい。(中略)しかしながら、ブルトンが倒錯趣味にどれほど恐怖を示したか、すでにわれわれは見てきたところである。(中略)そこでダリは、シュルレアリストたちの「この精神的偏狭さ」を次のように断じている。「わたしは、それが本物でなく、絵に描いた糞便にすぎぬと言って、自分を弁護しなければならなかった。まったくもって観念的なこの精神的偏狭さは、わたしに言わせれば、この時期のシュルレアリスムに特徴的な〈知性の悪癖〉であった。彼らは必要のないところにさまざまなヒエラルキーを打ち立てたがっていたのだ。」

「シュルレアリスムが躓いた二つの主要なポイント、すなわち、性的なものを破壊的に噴出させえなかったこと、および根強いその男根信仰は、たしかに相互に関連している。」

「こうしてシュルレアリスム・グループは、マルセル・デュシャンが《大ガラス》の原型に与えた形容を借りれば、あくまで「雄的」なグループなのであって、父権社会の全体と完全に和合するものであった。シュルレアリストたちは、男性社会と女性社会をそれぞれに画定してきた伝統的障壁を打破するところまでは、ついに至りえなかった。彼らは自らの肉体を欲望の対象化することを拒否した。彼らは女性を純粋な観照の対象としてしまった。」

「シュルレアリストたちはマルクスを裏切り、フロイトを理解しなかったと考えることもできる。彼らはマルクスとフロイトの名をあげ、二人の理論を支持し、その実践にかかわるものだと宣言した。結果としてシュルレアリスムは、その他もろもろの自称革命運動と同じく、マルクスとフロイトをブルジョワ文化に導入することになった。この二つの思想を馴致することに貢献したのである。そのことでシュルレアリスム自体が、ブルジョワ文化によって飼い慣らされてしまったのも、さして驚くにはあたらない。精神分析とマルクス主義のこうした去勢化は、せいぜいのところ、ブルジョワジーのための玩具を作り出すことにしかならなかったのである。」

「彼(アルトー)は、シュルレアリスムたちの観念的悪癖を喝破して言うのだ、「これら共産主義革命のアミエルたちよ。彼らにとって、革命の理念はついに理念でしかないであろう。理念は老い果て、ついには実効性の影すら獲得せぬままに終わる」
 そこにシュルレアリスムの失敗がある。「なぜならシュルレアリスムが現実のものではないのだとしたら、それが一体なんの役に立ちましょうか」かつてブルトンが街行く人びとを見ながら苦々しく発したあの一句を、そのままシュルレアリストたちにあてはめることができるだろう。「まさか、この連中がいまから革命を起こそうとしているとは思えないのだった」。」
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by mt_pineart | 2012-12-28 22:09 | 本の抜き書き | Comments(0)

「シュルレアリスム宣言」ブルトン著より

いくつかシュルレアリスムについての本を読んで、改めて「シュルレアリスム宣言」を読んだら、一文目にシュルレアリスムとは何か、ということが書いてあった。

「私たちはいまなお論理の支配下に生きている。」


シュルレアリスム第二宣言」アンドレ・ブルトン著より

「もっとも単純なシュルレアリスム的行為は、両手にピストルを携え、街に出て、群衆めがけ、せいぜい出まかせに発射することである。」
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by mt_pineart | 2012-12-28 22:09 | 本の抜き書き | Comments(0)

「ダダ・シュルレアリスムの時代」塚原史著より。

「イズーがはじめてまったく根拠のないやり方で文字を並べてみせたときには多少は感じられただろうものめずらしさも、おなじことを何百回も反復すれば消え去ってしまうのはあたりまえで、〈後略)」

「ダダの屍からシュルレアリスムが生まれたとか、シュルレアリスムはダダの二番煎じにすぎなかったとかいった、どちらか一方に優位性をあたえるような議論は、もはや不毛のものとなっている。むしろ、二〇世紀の文化の方向を決定し、現在のわれわれをもその射程におさめている「精神状態」として、 ダダとシュルレアリスムをとらえなおす時が来ているのである。」

「二〇世紀はじめのヨーロッパに出現した「前衛的」芸術運動は、未来派にせよ、ダダにせよ、あるいは初期シュルレアリスムにせよ、「理性的主体」からできるかぎり遠ざかることをめざしていた、といえるだろう。」

「ギュスターヴ・ル・ボンは、「群衆の心理学」で(一八九五年)で、こう書く。「理性は人類にとってあまりにも新しいことがらである。それはまた、あまりにも不完全なので、無意識の諸法則をわれわれにあきらかにすることも、とりわけ無意識にとってかわることもできない。 われわれのあらゆる行為において、無意識の占める部分は巨大であり、理性のそらはあまりにも小さい。」ブルトンが、一九二四年の「宣言」であたえたシュルレアリスムの定義ー「理性によっていかなる管理も不在であるような思考の書き取り」ーがすぐあとに続いてもおかしくなほどの、この言葉は、 ファシズムの知的起源となるだろう、一九世紀末の知識人の新しい世代によって共有される。」
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by mt_pineart | 2012-12-28 22:07 | 本の抜き書き | Comments(0)

「アートコレクターズ」2013年1月号

雑誌「アートコレクターズ」一月号の後ろの方の展覧会ガイドに、アンシールコンテンポラリーでの1月の個展が紹介されています。
http://www.tomosha.com/collector/index.html
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by mt_pineart | 2012-12-25 22:00 | 掲載記事 | Comments(0)

Artistic Christmas vol.Ⅵ 新宿高島屋

新宿高島屋でのグループ展に出品します。
小品5点展示予定です。

Artistic Christmas vol.Ⅵ
~大切なものは 目に見えない~

2012年12月12日(水)ー 25日(火)
午前10時から午後8時30分まで
※最終日は午後4時閉場。
新宿高島屋10階 美術画廊
http://www.takashimaya.co.jp/shinjuku/event/syousai.html?id=802&fb_action_ids=441154302618825&fb_action_types=og.likes&fb_source=aggregation&fb_aggregation_id=288381481237582
【出品作家】
井上裕起 北川宏人 小泉悟 住吉明子 
永島千裕 灰原愛 林茂樹 松浦浩之 松山賢 
ミヤケマイ 山崎龍一
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by mt_pineart | 2012-12-11 12:57 | exhibition | Comments(0)