「なぜこれがアートなの」 |
「(前略)私たちのリアリズムへの傾倒が、生まれながらにすべての者に備わっているものではなく、あとから習得されたものだということである。幼い子供たちや辺境の地に生活する人々にとって、印象派の絵画に見られる点々とした絵の具のかたまりや、あるいはもっと古い時代の巨匠たちが描いたドラマチックな光と影を用いた作品のなかに、人物や風景を見てとることはむずかしい。私たちがリアリズムに魅力を感じるのは、具象画を見ることで身につけてきたひとつの嗜好の結果に負うところが大きい。ルネサンス時代のイタリアの画家たちが遠近法を発見してからというもの、私たちは強くリアリズムによる幻想、つまり「絵画の嘘」にますますスリルを見出すようになったのである。写真、映画、テレビ、コンピュータ・グラフィックスなども、そういった欲求を満たす現代版の幻想だといえる。」
「創作には必ず、「認識」することが必要である。認識とは、なんら関係性もあるいは意味もないものを、頭のなかで「額」に入れることで、それに意味を与える作業をさす。私たちはこのように誰かによって「額」に入れられたものを身体で感じたり、頭で考えようとすることはあっても、身近の物や出来事にこのような注意を払うことはない。アーティストとは精密な具象画から奔放な抽象画にいたるまで、千差万別の手段を用いて不思議な現象を引き起こすことができる人々だ。しかも、いわゆる制作行為を放棄しても、それを可能にすることができるのである。」
「一般的な考えに反するかもしれないが、作品の意味は作者の責任外の問題である。さらに、その作品を制作するにあたって影響を与えたと思われる私的、あるいは歴史的事実関係をいくら調べ上げても、それは作品の意味ではない。肉体に精神が宿るように、作品のなかに自ずと意味が存在するというのでもない。それよりも意味は、人々が作品をみるという行為を通じて作品とおこなうコミュニケーションによって、作品に付加されるものなのである。
作品は、作者の手を離れたときから一人歩きする。17世紀、史上最高の画家と讃えられたグイド・レーニの名を知る人は、今ではほとんどいない。一方、画家として不遇のまま死んだファン・ゴッホは、現在、美術史上もっとも重要な人物のひとりとされている。もちろん、彼らの作品を制作するにたっての「動機や意図」、あるいは背景すら変わってはいない。それにもかかわらず、彼らの評価が著しく変化したのは、作品が別の意味をもつようになったからである。」
「なぜ、これがアートなの」 アメリア・アレナス著、福のり子訳、より
p118まで